外は大寒にふさわしい寒さだった。
薄暮の空から、ちらちらと白いものが舞い落ちている。
今年は例年になく寒い冬で、列島各地で、半世紀ほど前の豪雪に似たような降り方をしているという。
東京も例外ではなく、年末から数度、降雪の為、朝の交通ダイヤが乱れた。

「クソッタレが!」
罵り言葉が、口をついて出る。
胸ポケットから煙草を取り出して、火をつけ、吸い込んだ。
……どうにも、気持ちが鎮まらない。
クライン病院長に呼び出されて、「例の薬について、話を聞きたい」と言われたから、あの薬について考えなおしてくれるのかと思いきや、俺にさんざん話をさせておいて。
「あちらの会社が送ってくれたデータに、君の話を合わせて考えると……まあ、それだけの効果があったというのなら、採用してみてもいいのではないかな」だと!?
あれは確かに効果はある薬だが、患者にあわなかった場合の副作用の激しさが指摘されて以降、米国では使用を差し控えられている薬だ。
国内で売れなくなったからと、薬の製造元の製薬会社が海外に目をつけて、販売を目論んでいるらしいとはあちらで噂に聞いていたが、帰国して勤務した大学病院で、その薬を採用する話が出た。
先週、医局で開かれた会議では、きちんと薬の危険性を指摘したというのに、クライン病院長は、いったい何を聞いていたんだ!?
米国で、あの製薬会社後援で開かれた学会に出席していた招待医師の中にクライン病院長の顔はなかったと記憶しているが……なにせ、今現在、国内の精神科でさかんに使われている薬についても、その危険性のデータを握っていたらしいのに、使用認可をはかる会議を通させた張本人だ。
このアプリリウス大学病院に勤務する際に、腐れ縁の友人から頼まれたのは、他でもないその件について、もし何か判ることがあれば知らせて欲しいということだった。
ええい!しばらく前どころか、現在進行形で、危険性のある薬を患者に飲ませようとしているぞ、あの病院長は!!

「……ジュール先生」

呼びかけられた声に驚いた。
非常口の所に立っていたのは、同じ精神科の同僚アスラン・ザラ。
今、盛大に胸の中で罵っていたクライン病院長の娘婿になるはずの人物だ。
春に、この病院に勤めるようになってから、クライン病院長の身辺に詳しい人物だから、何か情報を握っていないか、もし握っているのだったら何とかそれを引き出せないかと下心があって近づいた奴だった。

「こんな所で、どうされたんですか?」
「あ、ああ。煙草を吸える場所だから、時々、ここを利用している」

近づくうちに、アスラン本人に対してどんどん惹きつけられてしまって、秋にはとうとう手を出そうとして……とんでもない事実が判明した。
抱き寄せて、そういう風に触れた際の乖離症状。アスランが意識を取り戻した後に、心配のあまり触れようとした時の激しい拒絶。パニックともいえる状態。そして、『止めて下さい、教授!』という、あの言葉。
アプリリウス大学医学部からストレートにその付属病医院に勤務したアスランが『教授』と言えば、クライン病院長以外にいない。
いつの頃からか知れないが、クライン病院長は親友の忘れ形見として引き取ったアスランにそういう関係を強要している!

「大寒でものすごく寒いですよ。風邪をひかれます」
「1本だけだ。もう、終わる。貴様こそ、こんな時間にここで何をしている?」
「今日の夜勤、アーガイル先生と替わりました」
「貴様が、今日の夜勤か?」
「……は、い」

煙草を始末して、一歩踏み出すと、アスランはかすかに後じさろうとする気配を見せた。
秋のあの一夜の後、アスランの過去について、『俺は、誰にも何も喋らない』と一度はっきり告げたのだが、明らかに避けられている。
趣味で続けている能も師匠が同じで同門だが、稽古でたまたま一緒になっても、ひどく他人行儀だ。
そもそも、二人きりになれる機会など、滅多になかった。

「アスラン、もう一度言うが、俺は誰にも何も喋らん……」

暮れてきた空の色に溶けそうなアスランの蒼い髪が、かすかに揺れる。
壁際に押し付けるようにして、追い込むと、白い貌が強張ってきて、翠の瞳が空ろに見開かれだした。

そんな顔をさせたいんじゃ、ない!

「信用できないか?」

顔を近づけはしたが、ぎりぎり触れない所で止めて、囁いた。
長い睫毛が、はたはたとまばたきを繰り返し、焦点を取り戻した翠の瞳が見上げて来る。

「……ジュール先生が、何も喋っていらっしゃらないということは、存じています」
「では、何故、俺を避けていた?」
「私は、病院長の……」
「病院長の娘の婚約者なことは、端から承知だ。俺は、火遊びをしたいのではない」
「ジュール先生…」

吐息のような声が、わなないていた。

「今、すぐにとは言わん。考えてくれるか?」

雪のように儚い表情で、アスランはようやく肯いた。
今は、それが精一杯なのだろう。

「宿直室へ行こう」

声をかけると、ほっとしたような表情をみせ、それから、かすかに視線を動かした。

「ジュール先生、煙草の灰が…」
「ああ、こんな所に…」

白衣の襟についていた煙草の灰を払おうとした俺の手と、伸ばされたアスランの手が、かち合った。指がかすかに触れ合う。


杜若


「あ……」
「すまん。痛かったか?」
「いえ」

外に出ていた俺の手より、冷えた指をしていた。
その手を、腕を取って、抱き寄せて、口づけたいのを堪える。
アスランの動揺にそ知らぬ振りをして、非常口の扉をゆっくり開けてやると。

「すみません」

小さく礼を言って、アスランは、白い貌にかすかな笑みを浮かべた。


そう、俺が欲しかったのは、これだ……。


たやすく溶けてしまう淡雪のように、すぐに消えてしまったそれは。
しかし。
深く、俺の心に刻みつけられ、消えなかった。